仮想冥界 出張所

0 濁流  
 冷たい水の中を彼は流されるままになっていた。
 流れに揉まれて水中に滑り込むと、柔らかい光が顔に落ちてくるのがわかる。
 そして何分、何時間とも判らない時間が経過したあと、彼は川岸に打ち付けられた。
 砂利や小枝などの川の不要物と共に堆積されたのだった。
 半身と呼ぶ大事な道具が入った鞄も少し先の岸に流れ着いていた。
 山から流れる水はそうして異物を排出しながら、清らかな水を下流へと流し続けているのだろう。
 まだ意識の戻らない彼はそのまま長い時間、といっても数時間ほどその場で眠り続けるのだった。

1 はぐれた男
 明治時代の中ごろの話。
 まだ西洋の文化が珍しい頃で、とくに地方では昔ながらの生活がほぼそのまま続いていた。
 長尾清隆(ながおきよたか)はそのような地方の各地を友人のアリウスと旅していた。そのとき、二人とその召使いはとても珍しがられていたのであった。とくに、アリウスはヨーロッパ系の顔立ちだったのでなおさらである。
 しかしこれは単に珍しいものを見て回る旅行でも、清隆のルーツである日本を体感する旅でもない。
 二人はもう少し「深い」理由をこの旅に秘めていた。
 それを特に他人に明かすことはなかったが、二人は村々に立ち寄っては、その地方の珍しい伝承を聞いて回っていた。
 特に興味を示したのは、いわゆる狐狸に化かされたという話、古くなった茶碗や薬缶が化けたという話、「あやかし」の話である。
 清隆の生まれ故郷であるイギリスにも近い話がないわけではない。ではなぜそれらの話を興味深く収集していたのかというと、それが二人の今後を左右する重要な情報だからである。

「……まいったな」
 清隆は深い森の中、周りを見渡して途方に暮れていた。
 アリウスも、召使いのアブドルもどこにも見えない。
 完全にはぐれてしまった。
 連絡が取れないわけではない。清隆は思考をアリウスや召使いに伝えることができたので、会話をすることはできた。
 問題は二つある。
 この場所の正確な名称がわからない。三人は山道を通ってきたのだが、途中に岩があり、大幅に遠回りをしてきたのだ。
 もう一つの問題は、森のあやかしに気づかれないかである。
 これまでの調査で、サトリという人の思考を読めるあやかしの存在がわかっていた。この近くにサトリがいるという話は聞いていないが、にたようなことができるあやかしがいてもおかしくない。
 なるべく自分たちの存在をこの国のあやかしに知られたくないのだった。

「こういうときは、どこか適当な町か村にたどり着いてから連絡した方がいいな。合流も楽だし」
 そう考えた清隆は、とりあえず森を抜けることに専念することにした。
 意識を集中して地面を見回すと、わずかに人が通った跡がある。普通の人には見えないくらいわずかであったが、清隆には往復した足跡がくっきり見えた。
 どうやら人里からそう遠く離れていないらしい。
 清隆は足跡に沿って歩き始める。
 
 ようやく人里にたどり着いたのは、翌日の昼頃であった。
 田んぼの広がる、そこそこの人口の村らしい。
 清隆は村はずれの地蔵が並ぶ道にきて、どうしたものかと考えた。
「とりあえず、村の名前を知らないとな」
 そして、誰かが通りかかるまで地蔵の近くの木の下で待っていることにした。
 
 しばらく待っていると、和服姿の少年が地蔵に花を供えにやってきた。
 少年は清隆の姿を見て驚いたが、そのまま地蔵に手を合わせている。
「こんにちは」
 清隆が手を合わせ終わった少年に声をかけた。
「こ……こんにちは」
 少年がおそるおそる清隆を見て頭を下げた。
「すいません、洋服を着てたので異国の方かと思って……」
 少年は言葉が通じないと思ったらしい。
 清隆は、イギリスで生まれ育ったわけではあるが、顔立ちは完全に日本人と変わらなったのでそんなふうに思われるとは意外だった。しかしこんな地方の村では、男性でも洋服を着ている人は珍しいらしい。
 それに少年は口には出さなかったが、清隆は髪の色こそ黒いが目は真紅、肌は不健康なほど白い。洋服の上にそのような奇抜な容姿は十分、少年に声をかけにくくさせていただろう。
「いや、確かにこの国の生まれではないが、言葉はある程度わかる。それより君、ここは何という場所だ?」
 清隆が尋ねると、少年は不思議そうな顔をした。
「ここは千草県(ちぐさ)の山根(やまね)村です。でも場所がわからないのによくこれましたね」
「迷ったんだ」
 少年は非常に礼儀正しい態度であったが、どこか天然なのかわざとなのか。清隆は少しむっとしていた。
「そうでしたか、すいません」
 少年はあわてて頭を下げる。
「いや、いい。場所がわかれば使いの者に連絡が取れるから、なんとかなる」
「それはそうですが、この辺は郵便が月に二回しか届けられないんです」
 少年が申し訳なさそうにいった。
 そうだ。「ふつうの人」ならそうなのだ。しかし清隆は念話ができる。
「電報は?」
「あ、それなら隣の皐月村の逓信局に頼めます」
「そうか、で、その村までどのくらいかかる?」
「南に五時間ほど歩けば着きます」
 うーん、と清隆は悩んだ。
 とりあえず今日はこの村で休んで、明日出かける振りして一日ほど森で時間をつぶすのが一番怪しまれない方法だろうか。
「わかった、今日行くと夜になってしまいそうだから、今晩はこの村に止まることにするよ。適当な宿はないかな」
「宿はありませんが、家にきてください。すぐそこです」
 少年はそういうと歩き始めたので、清隆はついていくことにした。
「そういえば、君の名前を聞いてなかった。ああ、私は長尾清隆というものだ」
「きよたかさんですね。ぼくは高籐祐介(たかとうゆうすけ)です……ええと、こちらです」
 歩きながら話している内に、二人は大きな屋敷に着いた。たぶんこの村で一番大きな家である。
「ただいま帰りました」
 少年は家でも礼儀正しかった。清隆に待っていてほしいというと、いそいで奥の方へとかけていった。

「何でも異国から来たとのことで……遠いところからこんな場所へよくきてくださいました」
 祐介から話を聞いた家の主人は、清隆を歓迎してくれた。
 主人は恰幅のよい初老の男性で、常にニコニコと笑っていた。
「使いの者がくるまで、何日いてくださっても結構です。もしよろしければ、祐介に異国のことをいろいろ教えてください」
「祐介君は、異国について勉強してるんですね」
 清隆が尋ねると、主人は豪快に笑った。
「別にそれだけではありません。漢文でも数学でも何でもしています。村で一番勉強ができる子です」
 祐介の礼儀正しい態度から、主人のいうことも大袈裟ではなさそうだな、と清隆は思った。
 
 こうして、清隆はごくわずかな間だが、この村で過ごすことになった。
 そのときは、この後奇妙な出来事に巻き込まれるとは、想像してもいなかったのである。

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